移住コラム第4回:英語教育とキャリア

前回は移住を真剣に実行に移すことになったきっかけについて書きましたが、それだけが海外移住することを決めた要因だったというわけではありません。

 

第一回でも少し触れましたが、まずは息子のバイリンガル教育について。

 

結論から言うと、外国語による教育のスタート時期は中学生くらいまでであればいつから始めてもモノになります。早ければ早いほど言葉や考え方がネイティブに近くなるのに比例して母国語が怪しくなります。小学校高学年から中学校くらいに始めた場合は完全なネイティブレベルになるのは難しいですが、日本語で考える力もある程度ついているので、うまくすると両方の言語をどちらも高いレベルで自然に操れるバランスを習得することが可能です。高校や大学や社会人になってからでももちろん努力次第で外国語をマスターすることは可能ですが、遅くなった分だけ習得に要する時間が長くなったり、より多くの努力が必要とされるのは仕方ないことだと思います。

 

いずれの場合でも、日本にいて日本語での教育を受けている限りは外国語で完全なコミュニケーションを取れるようにはならないでしょう。学校の英語教育の酷さは周知の通りだし、週に数時間ネイティブの先生から英会話を教えてもらう程度でマスターできる程語学は簡単なものではありません。生活している時間の大半を外国語に囲まれて過ごすことを少なくとも数年続けることが絶対に必要です。異なる文化や考え方に触れるという意味では英語圏でなければならないということはありませんが、共通語としての浸透度合いを考えると我が家の場合は英語が一番将来の可能性を広げてくれるものでした。

 

言葉の問題だけではなくニュージーランドの初等教育制度が持つ魅力も多々ありましたが、現在息子が実際にPrimary Schoolに通っているところなので、いずれ別の機会に実地体験を踏まえた報告をこのコラムで書かせていただきたいと思います。

 

2011年は息子が小学校最終学年の6年生で、ちょうど母国語と外国語のバランスが取れた習得には有利と思われる年齢でした。中学校に入ってお受験用の英語に毒される前に海外移住を真剣に考えることになったのもタイミングとしては最高でした。

 

そしてもう一つの要因が、僕自身のキャリアに関することです。

 

最初の転職をしてほぼ3年間、2社の外資系で最初の会社では経験できなかった多国籍な職場環境を経験しました。その中で多くの外国人の同僚と交わり、自分の仕事のやり方や人間関係の作り方が日本人でなくても、日本語でなくてもなんとか通用することを感じていました。同時に、知識や技術力で世界のどこでも勝負できる同僚達(多くはインド人)を見るにつけ、慣らし運転と称して本当の挑戦を先延ばしにしている自分にプレッシャーを感じてもいました。もう40歳の大台を超えてしまい、ニュージーランド技能移民の年齢ポイントが当時より5ポイント下がって申請可能な最低ラインである100ポイントになり、条件はドンドン不利になってきます。チャンスが来たらいつでも跳び乗れる心の準備はできていました。

 

プロジェクトマネージャーという仕事はプロジェクトの成否に全責任を負うのでその時仕掛かっていたマレーシアのプロジェクトが立ち上がるまでは動くつもりはありませんでしたが、プロジェクトが立ち上がって落ち着くのを見届けた頃、2011年10月には長い休みも取りやすくなるので最初の一歩を踏み出すにはこれまたちょうどいいタイミングでした。

ただし、この時はまだ永住権もなし、現地でのジョブオファーもなし、つまりはニュージーランドで就職できる保証なしという状況だったので、最初の一歩といっても在籍していた会社に辞表を提出することはできません。当面は単身仕事を続けながらニュージーランドにいる妻と息子に仕送りをしつつ、海外赴任になったり、100ポイントで永住権が取れたり、海外からの就活でニュージーランドの企業からジョブオファーをもらったり、といった奇跡が起こるのを待つという全く先が見えていない状況だったのです。


その方向性が急遽大きく変わったのが10月17日から1週間、家族で行った「Auckland視察旅行」でした。結果としてこの初めてのニュージーランド旅行が人生を大きく左右することになったのです。

 

(続く)